潮騒の子守り歌-[conparuの白い航跡]

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<<   作成日時 : 2009/07/16 21:10   >>

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世界に冠とした日本海運業が七つの海に君臨したのは、昭和30年代中ごろであったろうか。高速で大型の新造船が続々と建造されて、外国航路に就航していった。
戦後十数年が経ち、日本経済は奇跡的な復興を成し遂げて安定期に入っていた。華やかな商船時代の到来とばかり若い海上労働者を、「無冠の外交官」の美辞に付して、商船会社に送り込んでいった。船員養成は貿易によって立つ、わが国の国策に沿ったものであった。

宮川清二は中学を卒業すると、東北では一校しかない国立海員学校に入学した。今では海上技術専門学校と改称しているが、当時は全国に九つしか無い、普通船員の養成学校として『海員学校』があった。
古くは第二次大戦中の兵員や物資の輸送に多くの船員を送り出した経緯があり、薄青色のペンキで厚塗りした古い木造校舎の管理棟や、班制の寮棟には重苦しい雰囲気が漂っていた。

清二には過去の歴史的な重い影を引きずる伝統を感じさせる校舎なのだが、表面的にはあくまでも戦後の解き放たれた新制船員の養成所であって、校長始め教官の全てが海洋航海に従事してきた海の男たちで運営され、運輸省管轄の施設であった。
ついでに言えば、士官養成の商船高校や商船大学は文部省の管轄である。

当時の海員学校の特殊性は、中卒も高卒も、あるいは高校中退者も同じ教室で学んでいたことである。
当然のことながら紅顔美少年から老け顔の先輩面まで一所にいるわけで、寝起きを共にして同じ釜の飯を食べてきた同窓意識が、今でも全国に散っている仲間を集め、同期会の宴席を温め合っている。


日本経済が戦後の混乱期を乗り越えて、庶民の生活もいくらか安定してきたとは言え、まだまだ日本人の生活は貧しかった。
薄給体系に甘んじていた船員たちは、「貿易立国」という国是を背負いながら七つの海に漕ぎ出していった。『無冠の外交官』などと言った、くすぐったい表現もあった。
船員の士気を鼓舞する、国の方策だったのかも知れない。我々のような一般船員に被せられても、実感の無い虚飾だったと思える。

このことは外国の港にいるときの清二の胸に、しっくりとしない違和感としてこびりついていた。
無理にこじつを与えれば、外国の港に日の丸を掲げて停泊するわけだから、日本の顔をさらけ出すことになる。しかし本当の外交的意味を持つ乗船者は、当然キャプテン(船長)やオフィサー(航海士)であり、チーフエンジニア(機関長)やエンジニア、パーサー(事務長)等である。
海上労働者としての一般船員には、油に汚れた顔が似合うのである。


今はすでに往時の盛況を欠く海運業であり、時代も大きく変わった。
現代の商船には多国籍混乗という国際的な人的構成の上に運航され、十数人の少ない乗組員で航海しているそうだ。
私たちの頃は大型外国航路船で四十数名が乗り組んでいた。もちろん日本人だけである。日本経済がこれからと言う時代で、賃金は安かったけれど夢も希望もあった。若かったこともあるが「世界は広い」と言う感覚が、貿易立国の行く手を明るく照らしていたのだった。








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